大判例

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東京高等裁判所 昭和33年(う)30号 判決

被告人 籾井秀一

〔抄 録〕

控訴趣意第一について

論旨は、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな重大な事実の誤認があると主張するのであり、その要点は、原判決が公訴事実中暴行の点を認定しながら、右暴行に原因する傷害の点を認定しなかつたのは事実の誤認であるというのである。

よつて按ずるに、原判決挙示の証拠を総合すれば、原判示暴行の事実はもちろん十分に認定でき、この点について事実の誤認は存在しないことが明らかであるが、更に進んで右暴行に基く傷害の事実の有無について考察するに、記録を精査し且つ当審における事実取調の結果を参酌しても、原判決が本件暴行の結果その被害者三名のうちの一人高山静子に対し治療二十日間位を要する胃腸障害を与えたことは認めるに足りないとしたことを事実の誤認であると認めることはできない。

所論は、右高山静子が農薬ホリドールの粉末を浴びた後胃腸障害を起したのは、被告人の暴行に基くホリドール中毒の結果に外ならないのであつて、原判決が右因果関係を確認するに足る適切な資料がないとする理由として(イ)高山静子は他の二名の被害者に対し兎角病弱の体質であるらしい。(ロ)当日はあたかも生理日に当つていたことも明らかである。(ハ)被告人が問題の農薬ホリドールを撤布する前すでに空気中に飛散していた農薬ホリドールの作用を受けたこともたやすく想倒し得られる。(ニ)被告人の撤布農薬が高山静子の身体、着衣の如何なる部分にかかつたかを確認するに足る適切な資料がない。(ホ)右ホリドールにより同人の胃腸障害が惹起せしめられたことを確認するに足る適切な資料がないと各判示したのは、証拠に基かない独自の見解ないしは想像に過ぎず、原審は偏見に基いて審理に当つたもので、その証拠の判断においても一般経験法則等を無視した結果事実の誤認に陥つたものであると主張するのである。

なるほど、原裁判所は本件暴行により高山静子の胃腸障害を生ぜしめたとする因果関係を確認するに足る適切な資料がないと判断し、その理由として所論のように(イ)ないし(ホ)の如き理由を列挙しているのであるが、これが原審が本件暴行と傷害との間に因果関係が認められないとする理由の全部であるとは必ずしも考えられず、ただ原審としては、本件傷害罪の成立について単に証明不充分であると判示するに止まらず、その理由のうち若干を右(イ)ないし(ホ)の如く摘示したものと認められるのであるが要するに原審の判断は、高山静子が本件ホリドール粉末をかけられた当夜から胃腸障害を起したのは、ホリドールの中毒作用に基くものか否かが第一に不明であり、仮にホリドールの中毒作用であるとしたところで被告人にかけられたホリドールに基くものであつたか(或いは空気中に既に飛散していたホリドールの作用であるとみるべきか)否かも不明である。何となれば被告人の暴行によりホリドールが身体、着衣の如何なる部分にどの程度かかつたかを確認するに足りないからであるとするにあるものと解せられるのであつて、かかる判断をすることは記録並びに当審における事実取調の結果に徴しても強ち不自然ではないのである。(更にまた、右原判決の適示以外においても、高山静子が本件暴行以後において身体的障害を起したのは右暴行に原因するものではないと考えるべき事由として、右高山と同時、同処において除草作業に従事し、等しくホリドール粉末をふりかけられた青山君枝、青山八重子らは何ら身体的障害を起さなかつた事実をも挙げることができるのであろうが原審はかかる理由の摘示はこれを省略したものと認めるべきである。)

すなわち、右(イ)については、原審公判における証人小柳丞治の供述中には「高山静子は本件以外に診療を受けに来たことがあると思います。この人は平素あまり丈夫な人でなかつたと思いますが、四五年位前に診たことがある様に思います。」とあつて、同証人は医師であるから右供述中の「高山静子は平素あまり丈夫な人でなかつたと思う。」というのは単なる推測に過ぎないものとは認められないから、原審のこの点についての判断は必ずしも虚無の証拠による認定とはいえないし、(当審における同証人の供述の結果もまた原審の判断を裏書している)(ロ)については、高山雄子は原審公判において、その旨の供述をしているし、(ハ)についても原審における証人草間詠治(昭和三十一年十一月二十八日付尋問調書)、同草間昌司(同日付尋問調書)、同北條信一(同三十二年五月十一日付)の各供述によれば、当日可なり強い西ないし北西風(十米位)が吹いていたというのであるから、原判示の如き推測が全然許されぬと断ずることはできないのであつて、原審のこの点の判断が単なる想像に過ぎないものであるとは必ずしもいえないのである。(当審における右草間詠治の供述の結果もまた原審の右推測を裏書している。)また、(ニ)、(ホ)についても、記録を精査しても、被告人が被害者ら、殊に高山静子に対しふりかけたホリドール粉末が同人の身体、なかんずく着衣の部分は別として露出した皮膚の部分にどの程度かかつたか、鼻や口から吸入した分量がどの程度であつたか、そしてその分量がホリドール中毒を惹起させるに足るだけの分量であつたか否か等については明らかではないこと、また、被告人がふりかけたホリドール粉末の中毒により高山静子の胃腸障害が起つたことも明らかであるとはいえないから原審の判断は不当とはいえないのである。かえつて記録並びに当審における事実取調の結果に徴すると、原判示暴行の結果多量のホリドール粉末が高山静子の身体にふりかゝつたものとは認められないのみか、同人の原審公判における供述によると「当日の服装は手拭と笠をかぶり仕事着を着ていたが粉は顔から体全体にかゝつた。着物にもかゝり全身にかゝつた。そして手足の露出している皮膚にもぢかにかゝつた。」というのであるが、ホリドールが同人に対し中毒症状を与える可能性は顔面、手足等の皮膚露出部分からする吸収又は鼻、口からする直接吸入によるものである筈であるが、当審における同人の供述によると「かけられた農薬は別に吸いませんでした。」といつている位であるから、鼻、口からする直接吸入ということも除外して考えることができるのであり、結局残るところは皮膚の部分から身体内に吸収され中毒症状を惹起したとみるべきか否かということだけになるわけである。しかるに当審における鑑定人大森義仁の鑑定書の記載中、ホリドール(パラチオン製剤)の人体への吸収について、「経皮的の場合は特に大量を広範囲な体露出面に比較的長時間に亘つて浴びた場合以外はその毒性を左程問題にする必要もない」とある点からみれば、本件においては皮膚を経由してホリドール剤が作用し、よつて中毒症状を惹起したと認むべき根拠も薄弱であるといわざるを得ないということになるわけである。これを要するに、本件暴行と傷害との間における因果関係の認定をするに足りる証拠がないという原審の判断は、事理経験の法則に違背するものではなく、却つて所論こそ事実審の専権に属する証拠の取捨、選択に対し独自の見解に基いて論難するものであるとの非難を免れ得ないものというべきであろう。ひつきよう原判決には所論の如き証拠に基かず、或いは証拠の判断を誤つた結果判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認を冒した違法は存在しない。論旨は理由がない。

(三宅 井波 土肥原)

註 本件は量刑不当で破棄

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